長い間、風景画はフランスにおいて、あくまで宗教画や歴史画などの背景を飾る小道具として考えられていました。
ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、現実の風景を土台としつつも、風景に想像上の人物を配した叙情的な作品を制作、風景画の地位向上に貢献しました。
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
本名は、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、パリの高級婦人帽子専門店の子として生まれました。
当初は、画家になることを父親に反対され布地商に勤めながらデッサンの教室に通い、26歳のときに父親に画家になることを許され、本格的に画家を志します。
コローは3年間イタリアに滞在、その後は、晩年まで、フランス国内を精力的に旅行し各地の風景を描いています。
コローは、晩年には大家として認められて、売れっ子画家となっていましたが、生活に困っている画家を積極的に支援し、多くの画家から慕われていたようです。
未熟な若手の作品の作品に加筆をして「コロー」とサインを入れて販売の手助けをしたこともあったと言われています。
コローは、ミレーやドビーにとともにバルビゾン派の七星の一人として、後の印象派の画家たちに影響を与えたとされています。
コローの風景画
コローは、春から夏に戸外で作品を制作、それを秋から冬にかけてアトリエで仕上げるというのがコローの風景画制作の基本でした。
また、後半生は、画面が銀灰色と緑を調和させた森や水辺の詩情溢れる作品を制作して人気を得ました。
「モルトフォンテーヌの思い出」
(1864年)
コローの代表作、幻想的な風景は好評を博し、国家買い上げとなりました。
人物画
風景画の印象が強いコローですが、戸外で制作ができない冬の間や体調を崩した晩年は、人物画を好んで描いていました。
コローは、生前は人物がをほとんど公表せず手元においていました。
「真珠の女」
(1868年-1870年)
額にかかる髪飾りの小さな葉が真珠に見えることからついたタイトル。
描いているのは、親戚や友人、モデルに民族衣装をなどを着させて描いた空想の人物などで、著名人の肖像画は、ほとんど描いていません。
「青い服の婦人」
(1874年)
コロー最晩年の作品、死後、1900年のパリ万博で公開されました。
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