18世紀、まだ、女性の社会的地位が制限されていた時代に活躍したフランスの女性画家で、マリー・アントワネットの肖像画を多く描いています。
フランス革命による混乱のなか、フランスを逃れイタリア、オーストリア、ロシアなど各国で数年間過ごしながら作品制作を続けました。
フランスに戻った後もナポレオンの妹の肖像画を制作しています。
マリー・アントワネットの肖像画家
ルブランの肖像画の技術は確かなものでしたが、当時では、非常にめずらしい女性の画家で、その美貌からも評判となっていました。
「自画像」
(1781-1782年)
その評判を聞きつけ、マリー・アントワネットの肖像画の依頼がルブランのもとに届きます。
宮殿に招かれたルブランは、マリー・アントワネットと同じ年であったこともあり、二人に友情関係も生まれたようで、その後、王妃や子供たちの肖像の注文を多く受けます。
「フランス王妃マリー・アントワネットの肖像」
(1778年)
上の作品は、ルブランが最初に、宮廷に招かれて描い肖像画です。
それまでの肖像画に満足がいっていなかった王妃は、この肖像画を大変気に入りルブランは王妃お抱えの肖像画家となります。
王妃と子供たちの肖像
王妃との友情関係もあり、その後、多くの王妃の肖像画を制作しますが、フランス革命が近づいていた時代、民衆から王妃への批判が高まっていました。
「マリー・アントワネットと子どもたち」
(1787年)
この作品で、ルブランは王妃への批判を和らげるため、王妃を母性に満ちた人間味のある母親として描いています。
左から長女マリー・テレーズ、次男ルイ・シャルル(ルイ17世)、長男ルイ・ジョゼフが描かれています。
長男ルイ・ジョゼフが指さす空の揺り籠は、作品の制作途中に亡くなった次女ソフィーを暗示しています。
この作品の2年後、フランス革命がはじまり、マリー・アントワネットは1793年に処刑されてしまいます。
フランス革命後
フランス革命に際し、王党派で、王妃と親しい間柄のルブランは、フランスを逃れます。
フランス宮廷での活躍は、ヨーロッパ諸国でも役立ち、各国の貴族たちに歓迎され、多くの貴族の肖像画を制作しました。
ルブランは、多くの自画像を描いていますが、各国での宣伝活動の一環でもありました。
フィレンツェ時代に描いた「自画像」
(1790年)
1804年 ルブランはフランスに戻ることが出来るようになります。
その頃は、ナポレオン・ボナパルトが活躍、ナポレオンの妹の肖像画を描いています。
「カロリーヌ・ボナパルトと娘レティツィア」
(1807年)
しかし、ナポレオンやその妹との折り合いは悪かったようで、1807年、スイスへ出国しています。
ナポレオンが失脚後、王政復古したフランスに戻り、絵画制作の他、自叙伝なども出版など活躍し、87歳に没するまでフランスで過ごしました。
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